ようやくたどり着いた巨蟹宮に足を踏み入れた瞬間、は何か今までとは違う『何か』を感じた。
(なんかこの雰囲気やだなあ……)
そんなに後ろから声がかかる。
「ここは今までの宮とは違いますよ。気をつけて歩きなさい」
ムウの声に返事を返しながらも数歩進む。
興味深々なのか先に先にと進んでしまうを心配するように他の六人は進んでいく。
には微かに感覚としてしか感じない『何か』。それがこの宮の守護者が放つ小宇宙だと感じていたから。
(彼は何を考えているのだろう)
そう誰ともなく考える。彼らが今感じている小宇宙は攻撃的ではないにしろ、どこかしら嫌悪感を覚えるものであったから。そしてその小宇宙は彼らを牽制、威嚇していた。
心配されているのがわかっているのかわかってないのか、少し注意をしながらも暗闇に目が慣れてきたは足元を確かめながら一歩ずつ進んでいく。その時。
(ん、何か踏んだ?)
確かに足にはついさっきまで踏みしめていた石の固い感触とは違う、何か柔らかなものを踏んでいる感触。
(もしかしてアレか……?)
ちょっと下品なことを考えながらも、はその考えを打ち消す。こんなとこにまさかね、なんて考えながら足元を確認すると。
「…………」
暫くの沈黙の後。
「うわっ!」
慌てて足をのける。
が足を乗せていたそれは人の顔。じっと見てみるがそれは動く気配はない。そっとつついて見ると冷たく、ゴムのような感触。
(仮面のオブジェなんだ)
踏んじゃってごめんなさいね、謝りながらも、ほっとしてふと目の前の柱を見る。そこには同じように気味悪いくらいいくつも顔があった。その顔は様々な表情をしているものの、喜びの顔をしているものは一つもない。
「趣味わる……」
そうが呟いた時。
「誰の趣味が悪いって?」
「ひっ……!」
柱に浮かぶ仮面の一つが口を開いた。
は悲鳴をあげようとしたが口がうまく動かない。とにかくそこから逃げ出そうとしてみんなのいるところへ走り出す――が。
どたっ。
走り出した瞬間、足がもつれたのかはそこに膝をついた。起き上がろうとすると目の前の床が浮き上がる。それがだんだん形を成して――。
「お前、すんげぇおっちょこちょいだな」
喉を鳴らしながら笑うその顔には恐怖しか感じない。頭の中が白くなって、何も考えられない。完全なパニック状態になってしまったのだ。
がただ口をぱくぱくさせてその顔をみていると、ふと視界に金色の靴が見えた、そのとたん。
「いってぇー!」
踏まれた仮面が叫び声を上げて消えた。が上を向くとそこには怖いくらいにっこりと笑ったムウの姿。
(生き仏様じゃぁぁぁ〜!)
あんた一体いつの人だ、と突っ込まれる勢いで、は感動する。ムウは微笑んだまま後ろを振り返ると、その背後に姿を現した男に声をかける。
「デスマスク、いい加減にしないと『改造』しますよ」
「人の顔踏んづけといて何言ってんだよ!」
「おや、私は仮面を踏んだつもりだったんですが」
「なんだとてめぇ! 知ってて踏んだくせに!」
「悪魔だ……」
二人のやり取りを見ていたカノンがぽそりと呟く。もちろんムウのことである。
「そんなこと言ったら殺されちゃうよ……」
横にいた貴鬼がカノンの服を引っぱる。
「お前も苦労してるな」
「まあね」
目を合わせてふっと笑う。二人の間に共感が生まれた瞬間だった。
「ビビらせて悪かったな。俺が蟹座キャンサーのデスマスクだ」
まわりに集まったみんなにこってりしぼられてご機嫌ななめのデスマスクが、そっけなくに挨拶する。しかし目の前の少女は目を見開いたまま。
「おい、お前――」
「……う」
デスマスクが声をかけた瞬間、の口から変な声が聞こえ、見開かれた目から大粒の涙が零れ落ちる。の表情がみるみるくずれていき、泣き顔に変わる。
「お、おい何泣いてんだよ!」
慌てふためいたデスマスクが助けを求めて周りを見ると、氷のように冷たい十二の視線の集中砲火。
「女の子を泣かせたわ」
「男性失格ですね」
「おじさんサイテー」
「同胞として情けないぞ」
「男の風上にも置けんやつだな」
「お前がそんな男だったとはな」
「うっ……」
さらに皆の冷たい一言が突き刺さり、デスマスクは言葉を失う。とにかく目の前の少女を泣き止ませようとして手をかざすと、それに反応してが身を震わせる。
「なぁ、泣き止んでくれよ。頼むから、な?」
努めて優しい声でなだめようとするがはただ嗚咽をもらすばかり。何度かなだめてみたが一向に泣き止む気配はない。
元々気の短いデスマスクの頭の中で何かが切れた。
「てめー! 俺が優しくしてやってんのに泣き止めねーってのか!」
「きゃーーーー!!」
ブチ切れたデスマスクの怒声には身を竦めて叫び声をあげる。
「だいたいなぁ、ちょっと脅かしたからって泣きやがって……」
「「「お前はまだそんなことを言うのか!!」」」
どかァッ!!
最後まで言えないまま、デスマスクは床に沈む。ムウとアルデバラン、カノンに蹴られてさすがのデスマスクも床にはいつくばったままである。
「怖かったでしょう」
「大声で怒鳴られてかわいそうに」
「お姉ちゃん、もう大丈夫だよ」
沙織に抱きついて泣きじゃくるの頭をサガがそっと撫でる。小さく震えるその手を貴鬼が強く握り締めた。
やっとの思いで顔を上げたデスマスクは、その光景を見てようやく反省したのか、ゆっくり起き上がる。後ろから痛いほどの視線を受けながらもの前まで進む。今までを慰めていたサガが鋭い非難を込めた目でデスマスクを睨む。
異常なまでに緊迫した状況。その緊張を破ったのはデスマスクの声だった。
「泣かせて悪かった。俺がやりすぎた」
そう言うとデスマスクは潔く頭を下げた。それを見て一瞬、皆が顔を見合わせる。この男が頭を下げるなど、今まで見たこともなかったのだろう。
「もう何もしねぇからこっち向いてくれ」
沙織の肩に顔をうずめたままのに話しかける。その声を聞いてはおずおずと沙織から離れる。そこには心底すまなさそうな顔をしたデスマスクがいた。
「ほんとにごめんな」
何度も頭を下げる彼にはやっと安心したのか、まだ涙の乾かない顔をしたまま、こくこくと頷いた。
「すっごく怖かったんです」
「おう」
「とにかく怖かったんです」
「わーってるよ」
の頭を撫でながらデスマスクは呟く。そっと顔をあげたの目を見て。
「マジで悪かったな」
その言葉を聞いたの顔にようやく笑みが戻る。それにデスマスクも安心したのか、の頬に残っていた涙を少し乱暴に拭った。
「とにかく、顔洗うか?」
「うん」
じゃ、と呟いて、デスマスクはの背中を軽く押して私室へと入っていく。後には魂を抜かれたようにぽけ〜っとする六人の姿。
「あいつ、あんなこと出来るやつだったか?」
「この世で一番見てはいけないものを見たような気がします……」
口々に信じられないと言いながら、六人はとデスマスクが消えていった方を見ていた。
数分後。顔をきれいに洗ったデスマスクと、顔をきれいにして化粧まで直したが戻ってきた。
「なんだよお前ら。まだなんかあんのかよ」
不可解、といった目で見てくる沙織たちにデスマスクは不機嫌そうな顔をする。
「い、いや。色々信じられんことがあってな」
アルデバランがまだ夢現のような状態で言葉を返すと、ふぅん、と生返事をしてデスマスクは歩き出す。もちろん、も一緒に。
「あれ? みんな次行かないの?」
が未だに呆けている沙織たちに声をかける。その声にはっとしたのか、六人は後に続く。それぞれの胸に奇妙な感覚を残して。
暗い巨蟹宮を抜け、太陽の眩しさには思わず目を細める。それを横で見ていたデスマスクがふと、同じように目を細めた。
「お前、ちゃんと見ると結構ましな顔してんじゃねぇか」
「マシってね……。でも化粧してるから確かにそれなりに見れる顔には……」
「いや、そのまんまでも充分じゃねぇの?」
「そんなことないってば!」
顔を赤くして反論するに笑いかけながら、デスマスクは次の宮へと階段を上っていく。
そんな二人の会話を聞きながら貴鬼がそっと漏らす。
「蟹のおじさん、違う人みたい……」
「あれはきっと白デスマスクなのよ」
隣りで沙織がまだ信じられないような眼差しでデスマスクを見る。
「そーいやさ」
ふと聞こえたデスマスクの声に六人は耳をそばだてる。
「さっき言おうと思ってて忘れてたんだけどよ」
「なになに?」
が興味深々な目でデスマスクを見る。それにふっと笑いながら。
「マスカラしてる時、女は泣いちゃいけねぇぜ」
「「「「「「お前が泣かせたんだろ――――!!」」」」」」
思わずツッコんでしまった六人の声に、デスマスクは階段を踏み外しそうになる。
その姿に沙織たちが笑いだす。思わず、つられて笑ってしまったにデスマスクも笑いながら。
澄みきった青い空に皆の笑い声がこだまする。その空に真っ白な聖域の神殿が反射する。
平和を象徴するような光景に次の神殿、獅子宮が映っていた。