ぴちょーん…。

水が滴り落ちる音。
それ以外に聞こえるものといえば、お化けたちの押し殺した息吹。

最高潮の緊張に包まれているのは、
普段、ほとんど人の出入りがない、教皇宮の風呂場。

広いその空間には、足元から忍び寄る寒気が満たされている。


「寒いな」

誰にとも言わず、声を漏らしたのはデスマスク。

「そんなに着込んでいて寒いというのか?」

皮肉っぽく笑ったのはアフロディーテ。
暗闇の中で妙に目立つ赤い被り物を見てのことである。

「安心しろ。じきに暖かくなる」

これから起こることを察知してか、アイオリアがそう返す。


「こんな緊張感は久しぶりだな」

そう呟いたのはミロ。
ふいに横にいたシュラが、無言でうなずき返すのがわかった。

「それにしても、どんな男だと言うのだ」
「何。君が知っているよりもう少し、己の欲望に忠実なサガだ」

近付く者について言葉を交わす、カノンとシャカ。

「しかし、悪いことをしたな」

無理矢理逃がした者たちの顔を浮かべて、アルデバランが呟いた。

「そうだな。あれほど楽しみにしていたのに」
「後で、何か詫びをしてやらんとならんな」
「いいさ。仕切り直す時間はいくらでもある」

無事下まで逃げられたのだろうか。
そう誰もが頭の中に思い浮かべた時だった。

「…来るぞ!」

アイオリアが唸るような声で知らせる。
ドアが叩き壊される音と共に敷き詰められた緊張が破られた。



「すまん!我々では止められなかった!」

第一声を発したのはカミュ。
まとっていた布は大幅に破れ、執務室で何が起こったかを物語っている。

「もうすぐ来ます!できるならばここで食い止めたい!」
「すぐに攻撃できるよう力をためろ!」

崩れこむように入ってきたムウとアイオロスの声に、
その場にいた全員がすっくと立ち上がる。

「教皇と老師は?!」
「彼を後ろから追ってきています!」
「まずは私が止めてみるとしよう」

シャカの目がすっと開き、蒼い双眼に光がともる。
それを合図にしたかのようにシュラたちがおのおの小宇宙を高めだす。

何か、どす黒いものが渦巻いている感覚。
それがだんだんとこの場に近付き、戸口に姿を現そうとした時だった。

「お待ちなさい!!」

ふいに響いた女性の声に全員が神経を奪われる。
思わず振り向いたその先にいたのは、先ほど逃がしたばかりのと貴鬼の姿。

「な…!貴鬼!!」
「何をしに来た?!」
「逃げろと言っただろう!!」

黄金聖闘士が口々に騒ぐ中、始めに異変に気付いたのはカノンだった。

「待て…。何かが違う」
「何がだ!」
「よく見てみろ。普段のとは違う…」

その言葉にアフロディーテが目を凝らす。
確かに、普段の彼女とは何か違った雰囲気がある。

「何か違おうが彼女は一般人だ!ここにいさせるわけにはいかん!」

アルデバランがそう叫ぶやいなや、二人を連れ出そうと窓際に向かう。
しかし、はその手をするりとすり抜けて。

「お…おい」
「止めろ!誰かを止めろ!!」

彼女の向かう先にいる者を見て、アイオリアが声をあげる。

!どうしたと言うのです!」
「お前は死ぬ気なのか?!」

必死に止めようとしたムウとカミュの腕をさっと振り払い。

「大丈夫です。ご心配なさらないでください」
「え…」

明らかに普段の口調と違うに二人がひるんだその時。


「何だ小娘。何か用か?」

低い声が風呂場に響き渡る。
黄金聖闘士たちがはっと気付けば、
はすでにその男の目の前へと歩み出ていた。

漆黒の髪。血が滾るように赤い瞳。

そう。13年間もの間、教皇として君臨してきた男の裏の顔。
皆が恐怖におののき続けた、あのサガでさえも抑え切れなかった男。

の目の前にいるのは、世界の恐怖を一身に集めたような男だったのだ。

!離れろ!!」

そう叫んだのは誰か。
しかし誰一人としてを助けようとはしない。

いや、違う。
助けようにも、不可能だったのだ。



「なぜ…体が動かん…!」

そう唸ったのは童虎の横にいたシオン。

「何か、力が働いているようじゃが…」

いくら動こうとしても言うことを聞かない己の体に舌を打つ。

「馬鹿な…。あの男は目の前にいるというのに…」
「シオン。下手な復讐心を燃やすでない。あれはサガだぞ」
「サガではない!あれのどこがサガなのだ!」

もはや怒りで我を忘れそうなシオンを、童虎が懸命に諭す。
しかし、シオンはそれに耳も貸さず。

「…シオン!」

ふいにシオンの体が前に傾いた。
そしてそれにつられるように前へ、前へと足を運んでいく。

「いかん!シオン、ならんぞー!!」

相変わらず動かない体のまま、童虎が後ろで叫ぶ声が聞こえた。



「貴様!絶対に許さん!!」

水を打ったように静かだった風呂場に響いたのは、聞き覚えのある声だった。
それと同時に、漆黒の髪をなびかせた頭がわずかに後ろへと引っ張られる。

「シオン!」
「な…教皇!!」

現れた姿に誰もが動揺を見せる。
動かぬ体を動かそうと身を引き締める者もいる。

そんな中。

「くそっ!この老いぼれめ!」
「誰が老いぼれだ!あの日の私と今の私は違う!」

緊張が破れ、また新たな緊張が芽生えた中、
二人の男の怒号が天井の高い空間にこだまする。

「貴様だけは許さんと言っただろうが!」
「ふん!13年分の恨みを晴らそうというわけか!」
「それの何が悪い!!」

言い争う二人の均衡が崩れようとした瞬間。


ぱんっ!

乾いた音がこだました。


ぱんっ!
ぱんっ!

続けて二回繰り返した音に、皆の目が丸くなる。

「人に迷惑をかけてはダメと、あれほど言ったでしょう!」

張り詰めた声が聞こえ、辺りがしんと静まり返る。


数秒間の沈黙の後、男の声が聞こえた。

「母さん…?」

その声は他ならぬ、皆が聞きなれたサガのものだった。




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