「逃げろ」

そう言ったのは誰だったか。
それでも皆の緊張を伺っていたには確かにそう聞こえた。

、貴鬼」

振り向いたシュラは、いつも以上に鋭い視線。
今が尋常でない事態であるのは、その顔を見るだけで明らかだった。

「少しでも遠くに逃げろ」
「え?何で?」
「君たちの命の保証ができないからだよ」

言葉を足すように放ったアフロディーテの声からもいつもの穏やかさは消え。

「今、あちらにいる男はただの男ではない」

そう言ったシャカの緊迫した声にと貴鬼は瞬間身をすくめる。

「こちらへ来るぞ!」

ふいにミロが声をあげる。
その声すら、普段知っている彼とは思えないほど低い。

「カミュたちはどうしたんだ?!」
「小宇宙を感じることはできるが…」

顔を見れば、誰も彼も緊張を走らせて。
さすがにおかしいと思ったがふいに腰を浮かしたその時。

「何をしている!早く行け!!」

そう叫んだカノンの声と共にと貴鬼は、無理矢理立ち上がらせられる。

「いいか。この裏にある抜け道から、少しでも早く下に降りるんだ!」
「そして、雑兵たちにとにかく警備を固めるよう伝えてくれ!」
「え…でも…」
「いいから早く!」

先ほどまでの和やかさはどこへやら、
異様なまでの雰囲気をまとった黄金聖闘士たちの声には一種の寒気を覚えて。

「貴鬼、行こう!」
「うん!!」

そう言うと、貴鬼の手を握り、一目散にその場から抜け出した。

得体の知れないものが近付くような気配を感じながら。





「童虎!いったいどうなっておるのだ!!」
「わしに聞かれても知らん!」

駆け出していった男の影を追いながら二人は教皇宮の長い廊下を走り抜ける。

「アイオロス!アイオロスはおらぬか!!」
「前におります、教皇!!」
「何なのだ、あの男は?!」
「サガです!」
「サガだと?!」

アイオロスの返事に一瞬、シオンの足が止まる。

「何をしているシオン!あちらにはたちがおるんじゃぞ!」
「待て、童虎。あの…男…」

シオンが長すぎる記憶の糸を辿る。

「シオン…?」
「そうか…。そうだ、あの男だ!!」

目を見開いてそう叫んだシオンに童虎が息を呑む。

「どうしたんじゃ…?」
「構わん。行くぞ童虎!」

そういうなり駆け出したシオンを慌てて童虎も追いかける。
しかし、彼はふいにすり抜ける空気の中で確かに聞いたのだ。

『積年の恨み、今こそ晴らしてやる』と。





風呂場から逃げ出したと貴鬼は、目の前に見える小さな小道を見つけた。

「これが…抜け道かしら…?」
「でも、これの他には見当たらないね」
「そうね。とりあえずここを降りよう!」

人一人がやっと通れるほどの道を降りようとした時。

(待って!)
「きゃあぁっ!!」

聞こえた声と共に、は誰かに腕を引っ張られた気がしてその場に座り込んだ。

「どうしたのお姉ちゃん!」
「だ…大丈夫」

(そう、大丈夫だからあそこに戻って)

今度は聞き違えるはずもない。
確かに今聞こえたのだ。『あそこに戻って』と。

「貴鬼…」
「…うん」

ごくりとのどを鳴らした二人は恐る恐る後ろを振り返る。
そこに立っていたのは真っ白な光を放つ中佇む女性。
年は、より幾分上、といった感じだろうか。

「あ…」
「お…お姉ちゃん…」

明らかに人間らしからぬその姿に、と貴鬼は言葉を失う。
しかし、不思議とそこから凶悪な気配は感じとれず。

「あ…あの、どちら様ですか?」

我ながらマヌケだと思いながらも、その質問を口に出す。
しかし、彼女はそれには答えず。

(お願い。私をあそこに連れて行って欲しいの)
「え…?あそこって風呂場ですか?」

それに女性は静かに頷く。

「でも、カノンたちに逃げろって…」
(大丈夫。私がなんとかしてみせます)
「何とかって…。かなりヤバそうですよ?!」
(大丈夫です。決してあなたに被害は及ばせませんから)

懇願するように握ってきた女性の手はあまりにも冷たく、
それがこの世の者でないことは霊感のないだってわかる。

「と…とにかく行きます?」

その冷たさに半ば無理矢理手を解きながらが言うと、
女性は嬉しそうにへと近付き…。


「お、お姉ちゃん!背負ってる!!」
「え?!何を?!」
(さあ早く行きましょう!)

いきなり頭の上から声が聞こえる。
しかし、先ほどの女性の姿は見えず。

「あれ?貴鬼、あの人どこ?」
「だから背負ってるんだってば!」
「背負って…?」
「おばさんがお姉ちゃんの背中に乗ってるんだよ!」
「えぇぇぇ?!」

が振り向こうとした瞬間。

(誰がおばさんですって?!)
「え…あ…あのおいら…」
(おばさんじゃないでしょ!まだそんなに年じゃないわ!!)
「う…ご…ごめんなさい…」
(ほら、言ってごらんなさい。お姉さんよ)
「お…お姉さん…」
(そう、聞き分けのあるいい子ねー)

「あ…あの、とりあえず行きましょうよ…」

ついさっきまでとはがらりと雰囲気の変わった幽霊を背負って(?)、
と貴鬼は先ほど出て来たばかりの場所へと引き返したのだった。




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