「あー、疲れた!」
それだけ言うと、は摩羯宮の床に寝転んだ。
ひんやりした石の床。ほてっている体にはこの上なく心地よい。
「おい。そんなところに寝転ぶんじゃない」
渋い顔でそう注意するシュラを無視したままでいると、やがて諦めたのか固い石の床にどかりと座り込み、それですら止めたのか、ついにはと同じように寝そべってしまった。
「あれー? 結局シュラも寝転んでんじゃない!」
「お、お前に付き合ってやってるだけだ!」
「うっそだー。本当は寝転びたかったくせに」
「そんなことは断じてない!」
顔を真っ赤にするのが面白くてシュラをからかうと、ますますその顔を真っ赤にして彼が反論を返してくる。しかし、その反論とは逆に、体は床に寝転んだまま。
「もういい! シャワーを浴びてくる!」
「えー? 私もー」
「自分の家ではいればいいだろうが」
「いや、面倒くさいもん。じゃ、そういうことで借りまーす。はい、いいですよー」
「勝手に返事をするんじゃない!」
思わずそう叫んだ摩羯宮の主であるシュラを差し置いてはさっさと住居へと向かう。
鍵を開けっ放しがいけなかったのか、シュラがリビングへ走りこんだ頃にははもうバスルームに入るところで。
「じゃ、お先」と一言、笑顔で手を振ると、中へと消えた。
「まったく困った女だ……」
そう呟いては見るものの、シュラの口元には笑みが浮かんでいた――。
「あー、さっぱりさっぱり!」
シャワーから上がり、シュラが用意したシャツに袖を通したは上機嫌でソファへと沈む。
「えらく上機嫌だな……」
汗をかいたまま待たされたせいか、シュラの機嫌は少しだけ悪い。しかし、それにが気付くこともなく、革張りの黒いソファの冷たさに頬を擦り付けてまた寝ようとする始末。
「おい。寝転んだまま眠ってヨダレなんかたらすなよ」
「大丈夫! 絶対たらさないよ」
「嘘言え。こないだ起こしに行った時、枕に盛大にしみをつけてたくせに」
「う……っ」
が小さく身を縮める。
実はあまりにも日常茶飯事なので思い当たりもしなかったが――言われてみれば、こないだシュラが来た時にも起こされた時に口の端をぬぐったような気がしないでもない。
そのことを思い出したは無理矢理話題をそらそうと思い、先ほどまでの出来事を話し出す。
訓練場で見た聖闘士候補生のこと。それを指導していたいつも見る顔とはまったく違う『聖闘士の顔』をした、黄金聖闘士や白銀聖闘士たち。
自分がいつも談笑している彼らの違った一面を見て、新鮮さを覚えたこと――。
「それにしてもみんな、あんだけ走ってよく平気な顔してられるよねー」
「当たり前だ。半年近く訓練を受けてきてるんだぞ」
「それでもすごいって! 一緒に走ってくたくたになっちゃったもん!」
「そうだな。まあ、お前は本当の一般人だし、それに最近――」
そこまで言うとシュラはちらっとの方を見る。
最近、デスマスクやミロたちとよくアテネ市内で飲み歩いているとの話は本当らしく、少しばかり以前に比べて――。
そうシュラが考えていたことがにもわかったのだろうか。ふいに首を横に振って。
「違う、違う! ちょっと横のサイズが成長しただけ!」
慌てて否定をすると、自分にはかなりサイズの大きいシュラのシャツの脇をつまんでパタパと振る。
その姿がペンギンが小さな羽根を振る姿に似ていて、思わずシュラは噴出してしまった。
「あ、笑った! いけないんだー。人を見て笑っちゃいけませんってお母さんが言ってたのに」
「いや、物は言いようだな、と思ってな」
「何それ? まるで私が太ったって言ってるみたいじゃない」
「ご名答。その通りだ。――さて、俺もシャワーを浴びるかな。汗臭くてかなわん」
「いってらっしゃーい」と手を振って見送るに軽く手を上げてバスルームに向かおうとした時、ふいに後ろで小さな声が聞こえ、シュラは一瞬振り返った。
「……なんだ、その妙な格好は」
振り返ったシュラの目に映ったのは、シャツの襟口を目元まで引き上げてもそもそと動くの姿。
しかし、ちらりと視線を合わせただけのは、何度かシャツの中で鼻を鳴らすと思いがけない言葉をシュラに投げかけたのだった。
「このシャツ――。シュラの匂いがするよ」
「……は?」
「だから、シュラの匂いがするんだってば」
そう言ってもう一度鼻を鳴らすと「間違いない」と小さくくぐもった声で呟き頷いた。
しかし、目の前のシュラはさっと顔色を変えて。
「す、すまん! ちゃんと洗濯はしたんだが――。汗の匂いが残っていたか!?」
「うん。そうじゃないよ。何ていうのかなー? うーん、うまく言えないけど、シュラの匂いなの」
ほら、とシャツをはためかせてシュラの鼻先に持ってくるが、そこから匂ってくるのは自分が使っているボディーソープの香りだけで、の言っている匂いはわからない。
「俺にはわからんが……」
「自分の匂いって意外とわかんないもんだよ。ほらほら、そんなことより早くシャワーに行ってこーい! 今のシュラはかなり汗くさいよー?」
そう言うと、わざと鼻だけ出して指でつまむとしかめっ面をする。
「――まったく、誰のせいだ」
「え? そんなの知らないよー」
「……お前、将来大物になるかもしれんな……」
一緒に走らせた張本人の涼しい顔を見て、シュラは諦めのため息をつく。
「ほらほら、早くー。あがってきたらおいしいアイスコーヒーが待ってるぞー」
「本当にうまいのか?」
「当たり前だって。未来の大物が言うんだから間違いない!」
「――まったくお前は」
指をびしっと立てて言い切ったにシュラは苦笑すると一度かがめたその体を起こす。
「では楽しみにしているぞ。その最高級のアイスコーヒーとやらを」
「なんかグレードアップしてる気がするんだけど?」
「まあ、気にするな。ではな」
そう言って踵を返すと、またしてもシャツを引き上げたに見送られて、今度こそシュラはバスルームへと足を運ぶ。そして中に入る瞬間。
「そうだ。一つだけ言っておきたい」
「ん? 何?」
「お前のその姿――ペンギンみたいだな」
そう言い残してドアを閉める。
次の瞬間、ドアの向こう側で怒声を交えて自分の名を呼ぶ声が聞こえ、シュラは一人、めったに上げることのない大きな笑い声を上げたのだった。
<THE END>