『あなたは幸せですか?』
そんな言葉を聞いて答えられなかった自分がいた。
それはきっと、本当の幸せを知らなかったからなのかもしれない。
今だから、そう思える。
今日も今日とて、は金牛宮に入り浸る。
そこに主の姿があっても、なくてもだ。
そこは特に居心地がよいわけではなく、特別風景がきれいだとか、そんな理由でもない。
聖域の人間から見たら何の変哲もない、ただの建物。
それでも、にとっては自分の家よりも大切な場所。
それは何といっても、想いを寄せる人の家なのだから。
「、来てたのか?」
ふいに背後で声がして振り返ると、部屋の本当の主がその大きな体をかがめてを覗き込んでいた。
「おかえり、アルデバラン」
「ただいま。今コーヒーでも入れよう」
「いいの。気にしなくていいよ」
「そうは言っても客人だからな。遠慮せずもらってくれ」
それだけ言うと、自分の部屋へと入っていく。
きっと普段着にでも着替えるのだろう。
現実はの予想を裏切ることなく、ほんの数分で、普段のラフな格好に身を包んだアルデバランが出てくる。
「砂糖は2つ、ミルクは大盛り、だったよな?」
「そうそう。おこちゃまなんで」
確かめるように呟いた言葉に合いの手を入れる。
慣れているからだろうか、彼の淹れるコーヒーは名によりもおいしく感じる。
まぁ、そこにひいき目がないのかと言えばそうとは断言できないのだが。
「アルデバランのコーヒーは本当においしいんだよねー」
「そうか?俺より、ママの淹れたコーヒーの方がうまいぞ」
「そうなの?いつか飲んでみたいなぁ」
「そうだな。機会があれば、な」
上の空でそう言ったアルデバランは、やはりここで暮らしているとは言っても遠く離れた地を想う若者の顔で。
「たまにね」
「ん?」
「たまに、ブラジルに帰りたいって思うことある?」
「ブラジルか。そりゃ帰りたい時もあるさ」
「そうだよね。ふるさとだもんね」
そこまで言って、ふとは頭の中に一般常識を思い浮かべる。
「日本とブラジルって、一番遠いんだよね」
自分の祖国を思い出して、そう言ったにアルデバランは笑いながら。
「なんでも、普通に旅行をすると地球一周分の金がかかると言うからな」
「地球一周分かぁ。でかいなぁ」
いくらかかるのだろうと思っても、ろくに海外旅行をしたこともないには想像もつかなくて。
「遠いなぁ。遠すぎるよ」
「そうか?」
呟いたにアルデバランが疑問を投げかける。
「だって遠いでしょ?」
「確かに距離的にはな。でも…」
そこまで言ったアルデバランは、先ほどと同じように少し遠い目をしながら。
「俺にとって日本人は隣人のようなもんだった」
そう言って笑ったのだった。
歴史的に見れば、
確かに日本からブラジルへの移住者は一時期増加した。
それはブラジルで夢を叶えようとした人たちばかりで。
言葉が伝わらぬ故、辛い経験も多々あったと言う。
もちろん、もその事実に関しては、ほんの知識程度には知っていて。
「アルデバランの知ってる日本人は、どんな人だった?」
「そうだな…。例えば近所に住んでいたヤマダは優しい人だったな」
「他には?」
「他にはヤマダの知り合いぐらいしか知らんが…。本当に幼い頃、よく遊んでもらった記憶はある」
「どんな遊びをしたの?」
「なんだったかな。確かコマとかそういうものとか…」
「紐を巻いてぐるぐる回すやつ?」
「そうだ、それだ!まだ手が小さくてうまく回せなかったんだ」
「アルデバランが?手が小さい?」
思わず笑ってしまったにアルデバランは少しばつが悪そうに。
「まだ2〜3歳だったからな」
そう付け加え、まだ笑い続けるを軽くにらむ。
「ごめんごめん。それで、そのヤマダさんは元気なの?」
「彼か?…俺がここに来る前の冬に召されたよ」
それを聞いては一瞬言葉をなくす。
もしかして、聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないかと、黙っていても自分の耳に心臓の音が直接響いてくるようで。
少し下を向いてしまったの頭に心地よい重みがかかる。
「そんな顔をするな。彼は幸せだったんだから」
「でも…」
「孫やひ孫にまで囲まれて、本当に幸せそうだったよ」
「え…?あ…あの…そのヤマダさんていくつで亡くなったの?」
「いくつだったかな…。確実に90は超えていたと思うんだが」
「きゅ…90?!」
「うむ。近所でも評判の長生きで元気なじいさんだったからな」
の知らないその日本人のことを話すアルデバランの目は、もはや完全に幼かった頃のものとなり、次々と思い出を掘り返していく。
彼がブラジルで過ごしたわずかな時間のこと。
そこで出会ったいろんな人のこと。
嫌だったことも、嬉しかったこともきっと今の彼の頭の中には写真のように蘇っているのだろう。
自分の知らない彼の姿がきっとそこには満ち溢れていて。
「そういえば、はどんな子供だったんだ?」
唐突に聞かれて慌てたは思わず口からコーヒーを噴出しそうになって。
「あ…あたし?」
「そうだ。日本でどんな暮らしをしていた?」
「どんなって言われても…ごくごく平凡な生活だよ」
「平凡とはどんな?」
「え?あの…お父さんも普通のサラリーマン…会社員だし、
お母さんは専業主婦だし、生活水準も普通で家はマンションだし…」
指を折りながら挙げていくの横でアルデバランの笑い声が響く。
「すまんな。いまいち平凡と言うのがわからんかったのだ」
「あ〜。そりゃ聖闘士って存在自体が非凡…ってごめん」
「…別に謝ることはないぞ?」
「あ…う…うん」
もう一度「ごめん」と言いかけたのを無理矢理飲み込んで、は頷いた。
その代わりに何か…と考えているとふいに頭に浮かんだ言葉。
『あなたは幸せですか?』
そう、確か深夜番組か何かで聞いた質問。
「あのねっ…!アルデバランは幸せなの?」
いきなり声をあげたせいか、変に上ずった声は金牛宮の部屋中にこだまして。
「いきなりどうした…?」
「あ…いや、小さい頃のアルデバランは幸せそうだったけど、今はどうかな…って」
「今か?決まっているだろう」
「へ?」
「もちろん、幸せだとも」
嘘のないその言葉には一瞬戸惑ったが、また頭の中で思い直す。
『幸せじゃない』なんて、あんなにすっきりと言えるわけがない、と。
「ならば逆に聞くが、は今、幸せなのか?」
「え?あたし?!あたしは…たぶん…」
「たぶん?」
「うう〜んと…幸せ…だね」
「そうか。それならよかった」
ほっとしたようなアルデバランの顔を見て、の心も何かあったかくなってきて。
「あ…。そろそろ夕食だから帰るね」
時計をふと見るとすでに7時を回っていて。
いそいそと身支度をしたの横、ふいにアルデバランの声が響く。
「その…明日は空いているか?」
「え?明日?てか基本的にいつでも空いてるけど」
「そうか。なら久しぶりにアテネ市内にでも行ってみないか?」
「いいわね!何時ぐらいがいい?」
「そうだな。なら10時にここで」
「わかった!楽しみにしてる」
金牛宮の出口まで送ってくれたアルデバランに別れを告げ、双児宮、巨蟹宮と抜けて家路をたどる。
明日のことを考えて顔が緩みっぱなしのは宮の通路で寝転んでいたデスマスクにも気付かずに。
「よう…ってシカトか?!」
一瞬しかめっ面をしたデスマスクも、
の幸せそうな顔を見て、言葉を収める。
「まぁ、なんかいいことあったっぽいしいいか」
彼の呟きは巨蟹宮の高い天井へと消えていった。
この翌日が、にとってもアルデバランにとっても、もっと幸せな日へと変わるのだが、それはまた別のお話。
<THE END>