何気ない場所にさり気なく現れるものだから、きっと誰も気付かない。
でも、彼のことを考えると、それこそまさに彼の性分であるわけで。
だからこそ、誰も気付かない。
いや、それとも彼が気付かせないのか。
彼が死神であることを。
ねえ、そうやって笑っていたら。
本当に誰も気付かないのに、ねえ?
窓を開けたの顔は不機嫌極まるものだった。
それもそのはず。この世に、眠りを妨げられていい顔をする人間がいるだろうか。
「夜中に来るなって言ったでしょ」
しかも窓って、と付け加えては窓を閉めようとした。無論、外にいる男のことはお構いなしだ。
「まったく。会いに来てやったのにつれない女だ」
「誰も来て下さいって頼んでません」
よほど機嫌が悪いらしく、は恨めしそうな視線を投げかけた。口調も嫌味ったらしく、普段の彼なら瞬時にでも命を奪ってそうなものだが、あえてそれはしない。
これが、彼女の『普通』だと知っているからだ。
「まあ、そう言うな。夜の方が闇に紛れやすい」
「そんなの私の知ったこっちゃありませんよーだ」
窓ガラスのあちらとこちらで会話をする。かなり声を潜めているというのに、はっきりと相手に伝わるのは、ここが静寂に包まれているからなのだろう。
窓の向こうで短い舌を精一杯伸ばしてそんな台詞を吐く女の顔を銀の瞳に映すと、タナトスはふっと小さく笑って姿を消した。
「そういうわけで邪魔するぞ」
の背中に向かって声をかけると、同時に振り返った彼女と視線がぶつかる。
「……またそうやって勝手に入ってくる」
「我々にとって、人間ごときが作った壁など、ないに等しいものだからな」
「はいはい。人間『ごとき』ですみませんね」
その言葉が、彼の立場上出てくるものだとしてもやはりいい気はせず、いつものように刺を含んだ物言いで返事をすると、は先ほどまでもぐりこんでいたベッドに再び横たわった。
「何だ。眠るのか?」
さも意外そうに聞いてきた彼に「夜だからね」と短く返す。
「この間来た時は起きていたではないか。ほら、何と言ったか――」
「ゲームね。あれはあれ。これはこれ。とにかく、私は寝たいの」
頭まで毛布を引き上げ、完全に寝る体勢に入ったを見下ろしたまま、タナトスはため息をついた。
一度こうだと言い出したら聞かないのはわかっている。自分が何と言っても彼女はこの姿勢を崩さないだろう。
無理強いをすれば自分の望むようになると思っていても、行動を起こす気にはさらさらなれない。ならば、この我が侭な女に従うべきか。
そこまで考えて、タナトスは自分の考えていることのおかしさに笑った。
――この俺が、人間ごときに従うなど。
「何一人で笑ってるの?」
はそう言って心底眠そうな目をのぞかせた。興味半分、苛立ち半分といったところか。
それに対して、タナトスはさっと手を振ると、ベッドの脇へと腰を下ろす。
「何。お前があまりにもつれないもんでな、とんでもないことを考えてしまった」
「とんでもないこと?」
今度こそ、は好奇心で満ちた視線を投げかけた。しかし、タナトスは答えない。
代わりにそっと毛布をめくると、ベッドの中へともぐりこもうとする。
「ちょっと、ちょっと。いくら神様でも嫁入り前の娘さんのベッドに入るのはだめよ」
「そうか? さて、その前に娘とは……誰のことだ?」
しれっと言ってのけたタナトスには頬を膨らませた。
普段からよく耳にはするが、まさかこの男からまで言われるとは。
「心外か?」
「それはもう。今すぐ家から叩き出してやりたいくらい」
「ふっ。叩き出すとはまた大それたことを言うのだな」
「だってここは私の家だもん。あなたは不法侵入を犯してるんだからね」
毛布の隙間から指を突き出すと、びしっとタナトスに突きつける。
「人の家に勝手に入っちゃだめなのよ」
「それは人間の作った法か? ならば俺が従う理由はあるまい」
「郷に入れば郷に従えって言うでしょ。ここは私の家だから、私が法律なの」
「ならば、この家の法律を司る裁判官は俺にどんな判決を下すんだ?」
タナトスがそう返すと、は少しばかり悩む仕草を見せ、その後こほん、と咳払いをして。
「被告人タナトスを無罪とする」
そう言って、再び毛布の中へと潜り込んだ。
「それはまたえらく寛大な措置だな」
「そうよ。私は心の広い人間だからね。ただし――」
「ただし?」
「私に不快な思いをさせた時はチェーンソーでぶった切るものとする!」
彼女の発した言葉に、タナトスは一瞬言葉を失った。もちろん、それは彼女の言った意味がわからない、という意思表示でもあったのだが。
「まったく、お前は意味不明なことを言う」
ようやくそれだけ言うと、タナトスは狭い寝台の上に横になった。
すると、視界の端にちらちらと動くものが見える。何かと思って首を動かすと、毛布の端を掴んで振るの姿が飛び込んできた。
「おすそわけ」
そう言うとは、横に広げた毛布をタナトスの体へとかける。だが、シングルサイズの毛布を横にしたところで、彼の体全体を覆うことなどできるはずがない。
それでも、しきりに毛布をずらしながら、自分の体を覆いつつ、彼の体にも毛布をかけようとするの仕草があまりにもおかしかったのか、タナトスが低い笑い声を立てた。
「こうした方がよいと思わんか?」
ふいにの方へと体を傾け、ついでにその長い腕を彼女の体へと巻きつける。
慌てたがタナトスの腹を小さな足で蹴り上げて抵抗を示すが、それにも彼はまったく動じない。聖闘士の渾身の一撃を受けても平然としているほどの男なのだから当然といえば当然なのだが。
「ほら、眠たいのではないか? さっさと寝たらどうだ」
意地悪そうに笑うタナトスを見ると、は最後の手段に出た。くるり、と背中を向け、彼と反対方向を向いて毛布をかぶったのだ。
「そこからちょっとでも動いたら放り出すからね」
それだけ言うと、後はもう関わらないと決めたらしく、は目を閉じた。ほどなくしてすうすうと寝息が聞こえ、彼女が完全に眠りに落ちたことをタナトスに知らせる。
何も考えずその姿をぼうっと見ていると、ふいに彼女が以前言った言葉を思い出した。
――あなたってあんまり死神らしくないのね。
「死神らしくない、か」
この世でただ一つの存在である死神を「らしくない」とは。
「そうなのかもしれんな。――少なくとも、お前の前では」
無防備に眠る目の前のちっぽけな存在のことを思い、タナトスは微かに唇を歪めた。
<THE END>