真っ青に晴れ渡っていた空が少しずつ紅く染まり、やがて紺色を帯びてきて、この地に夜が近づいてきたことを告げる。遠くに見える海は別れを惜しむ太陽の精一杯の輝きに応え、波間を煌かせる。聖域にそびえる白亜の宮殿もその輝きを如実に反映する。
そんな中、その身にまとう衣を紅く染めたまま座り込み、タナトスは未だ自分の口から飛び出した言葉の意味を探していた。

――なぜ俺は、あのようなことを。

悠久の時間の中で生きてきた彼にとってこれほどの時間、一つのことを考えるのは珍しいことではない。むしろ、その考えている内容こそが、今までになく珍しいことなのだが。

戯れにしろ人の身を案ずることなど今までありえなかった。それがなぜ、一人の人間のようにあのように自然に言ってしまったのか。
彼がその身を案ずるのはただ一人、冥府の王ハーデスだけ。それですら、心から心配するほどのものではなく、一儀礼としての言葉だというのに。

――まさか、本能的にあの女の身に何かが起こると感づいたのか。

そんな考えにたどり着くと、どこからか『不安』が押し寄せる。しかし、不安など感じたことのなかった彼にそれが不安であるとはわからない。ただ意味のわからない焦燥感が胸の奥から湧き出てきて、彼は自分でも気付かぬうちに、自分の心臓の辺りの布をきつく握り締めた――その時だった。

「やだ。まだいたの?」

ふいにそんな声が聞こえてきてタナトスは反射的に顔を上げる。そこに見えたのはこの悩みの原因を作った張本人だった。

「早く帰らないとハーデス『様』が心配するんじゃない?」

そう明らかに茶化したように言われてもタナトスは声が出ない。ただ、先ほどまであった焦燥感が波が引くように消えていくだけ。

「あ……」
「ちょっとどうしたの?」

さすがにおかしいと思ったのか、が目の前で手を振る。目の前ではらはらと揺れる手を見てタナトスは少しずつ自分の思考が戻ってくるのを感じ、まるでその手を払うかのように自分の手を目の前で振った。

「何でもない。ただの考え事だ」
「考え事って……。こんなとこで考えるぐらいなら帰ってから考えたら?」
「俺がどこで考え事をしようと関係ないだろう」

第一お前が――と心の中で思いながらも彼はあくまで無関心を装う。幸いにもそれにだまされているのか、はそれをそのまま受け止め横に座り込む。

「お前こそ帰らずによいのか?」
「帰るも何も私の家はここだもん」
「馬鹿言え。もっと上だろうが」
「だって、ここはもう聖域の中でしょ。安全じゃない?」

人もたくさんいるし、と付け加えた彼女の危機感のなさにタナトスは深いため息をついた。

「俺が、死神が隣りにいると知っていてもか」
「え?」

思いもかけない言葉には目を丸くする。
今日だけで二度目だ。この男に驚かされるのは。ここまで話す仲になっていながら、この男は何を言うのか、と。

「わかっているのか。俺は聖域に敵対する者だぞ」
「敵対って……。聖域と冥界はもう和解したんでしょ?」
「俺はそう思っていない、としたらどうだ?」

その言葉に辺りの空気が心なしか重くなる。

「ねえ。何を言ってるの?」
「何も、そのままの意味だ」

まるで禅問答のように答えを繰り返すタナトスには押し黙る。

「それはつまり、その、あなたが私に対して死神の役目を果たそうってこと?」

答えない男には少し顔を歪める。

――本当にそうなのだろうか。もしそうだとしたら今日のいつもと違う態度も説明がつくかもしれない。それはつまり、最期を迎える者に対して彼が精一杯の情けをかけているということで――。
まさか、そんなことはない。人間の当然の思考としてはその考えを打ち消した。
そんなことはない。もし、もし仮に彼が自分の命を奪うつもりならば、こんな回りくどいことはせず気付かぬうちに彼の仕事を成し遂げるはずだから。
考えれば考えるほど、先ほどまで彼女の顔に浮かんでいた笑顔は消え、その代わりに不安と不可思議を織り交ぜた表情が浮かんできている。

それを見て、タナトスは心の中で小さく舌打ちをした。
がこの表情を浮かべたのは明らかに自分のせいだとわかっている。ここで普通の、人間の男ならどう言うだろうか。恐らくさっと顔を崩して冗談だと一笑にふせるのだろう。
自分にはそれができないからこそ、後悔も大きくなる。

――ああ、こんなことを言うべきではなかった。

そう思ってもこの空気を払うことはできない。そうこうしているうちにはついに頭を下げ、目を瞑ってしまった。

――このまま逃げ出すべきか。……逃げ出す? この俺が!?

徐々に自分の中に湧いてくる説明のつかない感情に彼が唇を噛んだ時だった。

「もう、いいよ!」

大きなよく通る声でが言い放った。一体何がいいのかと、タナトスはこちらを向いて笑ったの顔をまじまじと見つめる。

「決心もついたし、さあ!」

そう言ったの顔は何を吹っ切ったような顔で。あまりにも唐突なその態度に彼は一瞬呆然とした後ふいに笑い声を漏らす。やがてその笑い声は口に収まらなくなったのか濃紺の空に響きだす。

「まったく、お前は面白い女だな!」
「は、はあ?」

高笑いを続けるタナトスの横で、は唖然としてただ彼を見つめている。しかし、だんだん今の状況がわかってきたのか、顔を真っ赤にして無言でタナトスを―誰もが恐れる死神の頭を殴りつけた。

「……ッ貴様! 何をする!」
「あんたこそ私に何をしたのよ!」

涙目になりながらただ拳を振り下ろすに、さすがのタナトスを少し距離を置こうと立ち上がる。

「怖かったんだから! すごくビックリしたんだから!」

自分も立ち上がり、なおも拳を振り下ろしたの手をタナトスが受け止める。はそれを必死で崩そうとするが、所詮何の訓練も受けていない人間がそうそう振り払うことはできない。

「放しなさいよ!」
「それはできんな」
「なんでよ!」
「この手を放したら殴られるだろう?」

少し落ち着きを取り戻したのか余裕の笑みを浮かべたタナトスには気を悪くしたのか、さらに大きな声で怒鳴りたてて。

「もういい! もう帰る!」

そう言うと、くるりと背を向け聖域の長い階段へと歩き出す。

「送っていってやろうか?」

後ろから追いかけてきたタナトスの声にも答えずずんずんと歩を進める。

「返事ぐらいしたらどうだ」

そう言われても頬を膨らませ無言で突き進むにタナトスは頭を抱えると、本当に一部の者にしか伝えたことのない言葉を口にした。

「すまん。俺が悪かった」

自分の半身や周りを囲むニンフにしか言ったことのない言葉。しかもそれはほんの戯れでふざけて頬を膨らませた者にしか言ったことがない。人間――しかもしがない女一人になど言ったこともない。
それでもは前に出していた足をほんの少し止めた。

「もう一度聞く。送っていかんでいいのか?」

人が住んでいるとはいえ、暗い聖域に進んでいく彼女に少し心配したのか。先ほど言った言葉をもう一度彼女に投げかける。
するとはくるりと振り向いて。

「大丈夫!」

そう大きく返してから両手を口に添えて。

「あんたも早く帰りなさいよ! 気をつけて!」

それだけ言うと先ほどとまた同じように瓦礫を越えて帰っていく。しかし、足元が見えなかったのか突き出た瓦礫に躓き、一瞬バランスを崩す。

「危ないぞ」
「わかってる!」
「お前こそ気をつけろ」

タナトスが声を張り上げるとふと振り返り、追いやるように手を振る。そしてまた一歩ずつ足を踏み出していく。

後姿を見守っていると人影が近付き、彼女の腕を支え歩いていく。あの姿は恐らく聖域の雑兵だろう、と思うとふとタナトスの心に彼を羨むような、それでいて少し腹を立てるような気持ちが沸き起こってくる。
知っている人がいれば『嫉妬』だと断言するその感情を彼は知らない。ただこの妙な感情に一瞬首をかしげながらもその姿が見えなくなるまで見送る。

ようやく、彼女の姿が見えなくなると、彼はきびすを返し歩き出した。
不思議な一日だった、と今日一日を振り返りエリシオンへと帰る道すがら、あれだけ悩んでいたことへの答えが頭にひらめく。

――俺は、あの女に興味を持っているのか。
ヒュプノスや他のニンフにするように、彼女にそういった感情を寄せているのか。

それは彼にとって不思議以外の何者でもなかったが、今のタナトスはそういったことも思い浮かばないぐらい晴れ晴れとした気分に満ちていた。何時間も考えていた疑問がさらりと解けてしまった。そのことで頭がいっぱいで。



いつになく上機嫌なままエリシオンにたどり着いたタナトスに向けられたヒュプノスの目は、今すぐにでもその原因を問いただしたい衝動を抑えてはいたが、それを口に出すことはなく自身の神殿へと帰っていくその姿を見守っていた。

「珍しいこともあるものだ」

双子の兄弟はそう呟くと、自分も目の前に佇む住まいへと消えていった。

タナトスが自分の感情に気付くのは、これからしばらく後のことである。


<THE END>