「何これ?」
「見ての通り花だ」
「そりゃ見たらわかるよ」
想像していた通りの、そっけない答えだった。
遡ること一月前。カノンは急に目覚めてしまったのだ。
世の人間のほとんどが体験すると言われる『恋』と言う名の、険しき、だが甘美な感情に。
二十八歳という年齢は確かに遅い目覚めなのかもしれない。だが、生来前向き、悪く言えば楽観的で何も考えず、とりあえず前に進んで後で考える男であるカノンはこの恋を成就させる決心をした。
相手はあの。常に聖域男性陣の予想のはるか上を行く思想の持ち主。
普通の恋愛感情というものを持ち合わせているかも怪しい、と噂されるほど浮いた話も聞かれない。
彼女の持論は『みんな大好き』。
「好きな人はいないの?」と聞かれれば、即座に返ってくる答えは「キアヌ・リーブス!」。
その答えの前に敗れ去った男が最低五人はいることをカノンでも知っている。
だが、彼は戦士だった。地上を守る女神の聖闘士だった。
目標のレベルが高ければ高いほど気持ちが高ぶる性質(たち)だった。
「必ずを俺の手に!」
長い恋煩いの末、そう決心した夜。
隣りの部屋で本を読んでいた兄は弟の決意に人知れず喜びの滝涙を流したという。
「で、何で花なの?」
「お前に似合う、と思ったからだ」
気持ちをストレートに伝える。しかし、当のは訝しげな視線を投げかけた。
「どうしたの、カノン? 熱があるんじゃない?」
「いいや、まったくもって平熱だ」
「じゃあ、どこかで頭でも打った?」
「それも残念ながらない」
花をくるくる回しているは、口では何だかんだと言いながらも嬉しそうだ。やはり人として、そして女性として、例えそれが野に咲いている小さな一輪の花でも、花を贈られて悪い気はしない。
「まあ、どうでもいいや。どうもありがとう」
にっこりと笑って礼を言ったのその顔に、カノンの心拍数は急上昇した。
これが恋なのか。これがときめきというものなのか。そんな考えが頭の中を駆け巡り、それにつれて平常心というものがどんどん影を潜めていく。
「……また明日も来る」
ついに限界を覚え、それだけ言って踵を返す。
「――カノン」
ふいに名前を呼ばれ振り返った先には、愛しい愛しい彼女の姿。
「待ってるからね」
そう言ってその手に握られた小さな花を振る。先ほど向けられたばかりの、あの笑顔で。
だから思わずカノンも笑顔になった。
「明日は花束をやる。楽しみにしておけ!」
まるで挑戦状を叩きつけるようにそう叫ぶと、カノンは一目散に走り出した。
彼の恋は今、走り出した。
ゆっくり歩くのを止め、勢いに任せて走り出した。
それまでにどんな道のりがあるのかはわからないけれど。
どんな困難や喜びが待ち構えているのかはわからないけれど。
彼の恋は確かに今、目標に向かって走り出した。
<THE END>