柔らかな風がほほをくすぐり、その風に乗せて草の香りが漂ってくる。
こんな素敵な日に外で昼寝をしないなんて、よほど忙しい人か、よほど外に出るのが億劫な人に違いない。

「なーんてね」

頭の中で考えたことに自分で少し笑いながら、は一握り掴んだ草の塊をぱっと宙に投げる。塊だった緑の草はまた散り散りばらばらへと戻っていく。

「やっぱ人間は太陽あびてなんぼよね」

草の汁がつくことも気にせず、ごろごろと草の上を転がって。口ずさむ歌はどこかで聴いた風なメロディ。それが幼い頃見ていたテレビの歌だったことを思い出す。
思いもしなかったことにふと笑いをこぼしたその時。

くしゃっ。
ごく身近に何か気配を感じて、視線だけをそちらに移す。

(なんだ、猫かあ)

にゃあ。
そう小さな声を出して興味深そうにこちらを見る目は、『あんたこんな時間にここで何してんのよ』と言わんばかり(に見える)。
平日の午後二時。いくら聖域の人間がヒマをもてあましているとはいえ、この時間はさすがに皆、それぞれの仕事についている。それを考えれば、この時間にこうして草に寝転がっているのは、猫か自分しかいない。

「おいで〜、おいで〜」

一掴みした草をふりふりと振りながら猫を呼ぶ。猫は知ってか知らずかぷいと横を向き、我関せずといった涼しい顔。ふと、足に目を向けると小さく血が滲み出ている。

(怪我、してるの?)

まだ子猫なだけに、傷口にばい菌でも入ったら、と考えると少し不安になって。

「ほらほら。怪我治してあげるからおいで〜」

やっぱ猫じゃらしじゃないとダメかしら?と思いながらも根気よく振り続ける。

「ほらほら〜。こっちにおいで〜。おいでったら〜」

いつしか猫を呼ぶのに真剣になっていたは、自分に注がれている視線にも気付かず、猫に詰め寄る。それでも警戒心を解いてくれないのか、猫はが近づくごとに後ろへ下がって。

「あっ!」

ふいと顔を背けたまま、歩いていってしまった。

「もう、もう、もう〜!」

自分に懐かなかったのが少し悔しくて、は持っていた草を投げ出す。それは先ほどと同じようにぱっと舞って、やがて草の上へと戻っていく。

「そんなに気性が荒くては懐くものも懐かんな」
「は?」

頭上からいきなり聞こえた声にびっくりして振り向く。そして。

「あんた誰?」
「えらく不躾な質問だな」
「すみませ……。いや、じゃなくって本当に誰?」

聖域にいる人間なら雑兵以外はほぼ把握してると言っていいも、目の前にいる人物はまったく見たことのない顔で。雑兵かと思いきや、まったくその様子もない。むしろ格好が変だ……と思う。
いくら聖域が外界から少しばかり隔絶された場所とはいえ、さすがに白い布切れ一枚を纏って『一人ギリシャ神話』している人間はいない。それは聖域一の世間知らず、黄金聖闘士といえどもない姿で。

にゃあ。

またあの小さな声が聞こえる。ふと視線を落とすと、その人の腕に抱かれているのは先ほどの子猫。

「あ」
「この猫は賢いようだな。私とお前の違いがわかるようだ」

ふーん、と聞き流しかけてふとは思考を止める。

(私とお前の違い? 私トオ前ノ違イ……?)

「ちょっと! 違いってなんなのよ!」
「そのまま、言葉のとおりだ」
「じゃなくってあんた何様のつもり?!」
「神様だ」



「はあ? 神サマ?」



短い沈黙の後、の口から発せられたのはその一言だけ。

柔らかな風が駆け巡る。開けっ放しの口でその風を受け止めながら、は予想だにしなかったその言葉の意味を頭の中で繰り返していた。



にゃあ。

三度、猫の鳴き声に現実に引き戻されたは、自分がしていた間抜けな顔に相手が笑っているのに気付く。

「あんた、かなり失礼ね」
「そうか?」
「少なくとも私のランキングの中では、ね」
「そうか、失礼した。そのような些細なことは気にかけんものでな」

(感じわる―――――!)

「……感じ悪い方デスネ」
「それをストレートに言うお前もそうだな」

多少険悪な空気が流れて。先に折れたのはの方だった。無言でそっぽを向き、草の上に転がる。再び転寝をしようと目を閉じると。

「ひゃあ……ッ!」

いきなり耳にざらついた感触が走り、思わず声をあげる。振り返るとそこには目の前にせまった猫の顔と金の髪を震わせ小さく声を立てて笑う男の姿。

「なっ……何すんのよ!」

自分が情けない声を出してしまったのがよほど恥ずかしかったのか、は真っ赤な顔をして男をにらむ。

「そうにらむものではない。美しい顔が台無しだぞ?」
「いい眼科、お勧めしましょうか?」
「ガンカ? なんだそれは?」

男のその一言で二人の間にさらに沈黙が流れる。

(何? 今のってもしかしてギャグ? 笑うところなの!?)

「面白いギャグですね」
「そんなものではない。それよりガンカとはなんなのだ?」

…………。

(……この人、本当に知らないの?)

信じられないと思いながらも恐る恐る問いかける。

「あの〜。お住まいはどちらで?」
「エリシオンだ」
「エリ、シオン?」

一瞬、この聖域の教皇の顔が思い浮かぶ。

(いや、絶対ない! あの人が他人をかくまうなんて絶対ない!)

ぶんぶんと頭をふり、思考を戻そうとする。その時、また笑い声が聞こえて。

「お前は本当に……。よくそれ程くるくると表情が変わるものだ」
「あ〜。よく言われマス」
「だろうな。そのような者は見たことがない。――少なくとも、私の周りでは、な」

ふと、彼の金色の瞳に何か感情が浮き出たような気がして、それを確かめようとが口を開いたその時。

「アテナが守ろうとした人間も、あながち捨てたものではないな」
「え?」

ふと漏らされた言葉にが声を返すと。

「……今の言葉は聞かなかったことにしてくれ」

有無を言わせない視線にはただうなづく。そこに何か、聞き返してはいけないような雰囲気があったから。それとも彼の瞳に不思議な光が宿っていたから?

「ところで」
「はい?」
「お前がさっき言っていたガンカとはいったいなんなのだ?」
「……あんたもしつこいね」
「まったく予想もつかないものでな、その、教えてもらえるとありがたい」

最後の方は口ごもるように呟いたせいか、うまく聞き取れることはできなかったけど。

「眼科ってのはね〜、目のお医者さんのことよ」
「目の? そうか、人間にはそのような者もいるのか」
「あ、医者は知ってるんだ?」
「まあ、そのくらいはな」

表情は動かないままでも、少し照れたような感のある声に少し笑って。

「なんだか、この世界の人じゃないみたい」
「なるほど、思ったより勘がいいな。この世界の、ましてや人間ではない」

ああそうですか、と返そうと思ったが、そのままは黙りこんでしまった。よく整理しよう。今、彼は何と言った? 人間ではない?

「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」

最後の言葉をようやく理解し、思わず腰をひいたをあざけるかのように。

「だから言ったであろう? 私は神だと」
「いや、冗談かと思ってました……」
「あいにく、冗談など言う気質ではない」
「そっか。でもよかった」

その言葉に思わずそっと胸を撫で下ろす。その動作に彼は不思議そうな顔をして。

「何がよかったのだ?」
「え?幽霊じゃなくてよかったなあ〜って」

そう言った途端、彼の表情が変わる。

「お前、亡者が怖いのか?」
「え? そりゃもう――」
「そうか。ならば、今度亡者しかおらんところに連れて行ってやろう」

「……冗談だ」

思い切り顔を引きつらせたを見て、そう呟く。その言葉にはほっとため息をついて。

「最高にきれいなお花畑だったら行ってもいいかもな〜。……八十年後ぐらいに」

そう笑って、なんとか気を取り戻そうとする、が。

「お前のような者は無理だ」
「あ、そう……」

あっさりと返され、出る言葉もなくす。

(なんか、掴みにくい人。いや、神様)

がその顔を見ながら思っていると。

「そろそろ戻るとするか」
「へ?」
「私も多少はヒマではあるがお前ほどではないのでな」

そう言うと、抱えていた猫をの腕に渡す。

「お前の猫なのだろう?」
「え、ちが……」
「たまにはそのような温もりもいいものだな」

立ち上がって服についた草を払う。

(背、高いな〜)

ぼ〜っと眺めていると男がふっと笑って。

「それではな」
「あ、また……ね?」
「また、機会があればな」

そう言って男は姿を消した。まるで風に紛れるように、あっさりと。

「あ! 名前!」

彼の姿が消えると同時にふと思い出し、そうとっさに叫んだの声が届いたのか。

『我が名は、ヒュプノス』

確かに彼の声が風に乗ってそう聞こえたような気がした。



にゃあ。

腕の中にいた猫がまた小さな声をあげる。その姿はどことなく弱々しくて。

「あ! 怪我!」

怪我をしていたことを思い出して恐る恐る子猫の足を掴む。

「あれ?」

さっきまであったはずの傷口はすでに消えていて。

「ヒュプノスが治してくれたの?」
「にゃあ」
「優しい人でよかったね」
「にゃあ」
「おなかすいてない? うち来る?」
「にゃあ」
「そっか。じゃ、いこっか」

子猫を抱えなおすとはさっと立ち上がり、十二宮の階段を目指す。午後の優しい風が運んだ不思議な物語を思い出しながら。


<THE END>