「ちょっと、どこ見てんの?」

余所見をしたデスマスクの頬を細い指がつねる。デスマスクが慌てて視線を戻すと、そこには心なしか眉を吊り上げたの姿がある。

「正直におっしゃい。今、赤いワンピース着た女の人に見とれてたでしょ?」

有無を言わせない口調。それがまるで尋問のようだとデスマスクは一瞬思ったが、すぐに首を振ることで否定をする。

「馬鹿。たまたまだよ、たまたま。赤い服が見えたから振り返っただけだ」
「へえ」

とっさに出た言い訳も意味深な表情で返される。まったく、この女には口では勝てない。それは付き合いだして数ヶ月、すでに何度もその身をもって経験してきたことであるのに。

「赤い服ねえ……」

隣のがちらりとデスマスクを見やり、その視線の先に映るものへと自らも視線を移す。それからまたデスマスクへと戻って。

「同じ赤い服でも、あの女の子には反応しないんだ」

嫌味をたっぷり振りかけたその言葉に、ようやくデスマスクは気がついた。彼女が、自分の視線をじっと観察していたことに。そして、自分の視線がその少女をまったく追っていなかったことに。――気づいたところで手遅れなことに変わりはないのだが。



結局、その日は帰るまで彼女はほとんど口をきいてくれなかった。確かにその気持ちはデスマスクにだってわかる。彼とて、自分と話している最中に、彼女が他の男を見ていたとしたらいい気持ちはしない。だが、何もそこまで怒ることはないんじゃないか、と自室に帰ってから小さくこぼす。ちょっとイイ女だったから、ちょっと自分好みだったから、とあれこれ理由をつけて自分の行為を正当化してもみる。もちろん、になどとうてい言えるはずもない。
そんなことをうだうだと考えているうちに、すでに月は水平線へと降り立とうとしていた。窓の外を見ると、夜でもなく朝でもない明け方直前の独特の藍に包まれて、上に見える他の宮がぼんやりと光っているのが見える。よし、と小さく呟いて、デスマスクは寝返りを打った挙句ぐしゃぐしゃになってしまったベッドから身を起こした。

考えていてもどうにもならないのなら行動に移すだけ――そんな彼の数少ない長所の一つに身を任せて、部屋のドアに手をかける。
ドアを開けると同時に流れ込んできたひんやりとした空気に少し身震いをして一歩を踏み出すと、あとは一目散に上へと向かい駆け出した。

獅子宮、処女宮……。延々と続く階段と、登り切った先にあるそれぞれの宮を抜け、教皇宮の手前まで来た時には、あの藍色だった空にも明かりが差し始めていた。時間にして数十分。常人の域から考えるとずいぶんと早いものなのに、なぜか彼にとってはとてつもなく長く感じた時間だ。
ようやくここまで来た、と絶え絶えになった息を整えて、目の前にそびえる教皇宮の横をすり抜け、目的地を目指す。
三歩、二歩、一歩。心の中でカウントダウンをして、扉の前でぴたりと足を止める。中の様子を伺うも、何も音は聞こえない。そのまま家の壁にそって寝室の窓へと辿り着くと、いつもは内側から見ているカーテンがガラス越しに見えた。

こつこつと窓ガラスを叩く。何も反応はない。
こつこつ、こつこつ。何度も窓ガラスを叩いて自分の存在を示すも、一向に応えられない返事にそろそろ諦めようかと思った時、中で軽い衣擦れの音がして一瞬身がこわばった。
しかし、それも束の間。再びぴたりと止んだ中の音に対してもう一度行動を起こす。
ようやく聞き間違いではないと気づいてもらえたのか、シャッとカーテンを引く音とともに、明らかに寝起きのが現れた。
黙ったまま窓越しに彼女が指をさす。それが扉の前まで来い、といっていることを瞬時に理解し、デスマスクはいそいそと扉の前へと戻る。ほどなくして、カチャリと開錠の音が聞こえ、扉が開かれた。

「悪ィな。寝てたのに」
「悪いと思うんなら来ないでよ」

冷たい物言いだがまだマシな方だ。以前盛大な喧嘩をした時は、自分の顔を見た瞬間にぴしゃりと扉を閉められたことを思い出して、デスマスクはほっとため息をついた。
促されるままに室内に入ると、そのままはキッチンへと消えていく。その後姿を眺めながら、定位置のソファに腰を下ろして待つこと数十秒。上にまとった毛布をずるずると引きずりながらもまた自分の定位置へと座り込む。

「寒くないの?」
「いいや。ここまで走ってきたからな」
「……よくやるわね。二十三にもなるのに」

そう言ってがくすくすと笑い声を立てた。それにつられてデスマスクがふいに笑い声を上げようとした時、背中にぞくりと寒気が走った。先ほどかいた汗が乾いてきたのだ。

「……やっぱちょっと寒いかもな」

目の前で毛布にくるまったに言いながら視線を送ると、彼女はまるで自慢するかのように毛布を広げ、さらにきつくくるまった。

「入れてほしい?」
「お前がその気でいるんならな」
「デスマスクはどうなの?」
「入れてほしいに決まってんだろ」

鳥肌の立ちだした腕をさすりながらそう答えると、「じゃあ、用事が済んでからね」と言って彼女は微笑む。デスマスクが何をしに来たかなど、すでにわかりきっていた。何せ、彼の行動パターンといえば複雑に見えて、実は驚くほど単純なものなのだから。
それはデスマスクにもわかっていた。だからこそ毎回こうして彼女に頭を下げる。もちろん、自分が悪いと思うことでなければ絶対に頭は下げない。それは彼女も同じだ。だからこそ、馬鹿のように些細なことで喧嘩を繰り返すこの二人で今まで続いてきたとも言える。

今回はデスマスクに非があった。だから彼は潔く頭を下げた。本気でなければこんなことはしない。ただ適当にはぐらかすだけだ。

「もう同じことはしない?」
「ああ、絶対にしねえ」
「本当に?」
「本当だ」

胸を張ってそう言ったデスマスクを見るの表情が少しばかり悪戯心を含んだものになる。

「本当の本当にそう思ってる?」

そう聞かれてデスマスクは一瞬言葉に詰まった。口では「絶対」などと言ってみたものの、正直言って彼にも自信はない。

「ねえ、本当に絶対とか言い切れちゃう?」
「……お前、わかってて言ってるだろう?」

笑いながらそう言ってきたにデスマスクは小さく抗議の声を上げる。愉快そうな顔で聞いてくるものの、内容が内容なだけに、デスマスクにとっても分が悪い。
しかし、ここで安易に言い直すわけにはいかない。何せ「絶対」などと言ったのはつい先ほどのことだ。それをさっと取り消すなど自分のプライドが許さない――と頭では必死に考えてみたものの。

「その……絶対、とは言い切れねえけど、努力はする」

ついに出たデスマスクの本音にの顔がほころぶ。結局デスマスクは負けてしまったのだ。プライドと彼女の言葉を天秤にかけて、ここは自分のプライドを捨てた方がいいと考えたのだ。もちろん、そんなことをしなくとも、すでにが許してくれていることもわかってはいるが、それでは自分の気持ちというか、思いに納得がいかない。
「やっぱりね」そう言って近づいてきたにちらりと視線を向ける。まったく、こいつといると調子が狂う。そんなことを思われているとは露ほども知らず、にこにこと機嫌のよい笑顔を浮かべてはまとっていた毛布をふわりと広げた。

「ほら、約束通り」

一人がけのソファの肘置きに座り、デスマスクの肩へ広げた毛布をかける。半そでのシャツからむき出しになった腕にかかった毛布の感触が温かく柔らかい。それをもう少し味わおうとデスマスクがかけられた毛布の端を引っ張ると、その動きにあわせるかのようにの体がすとんとデスマスクの膝の上へと落ちてきた。

「もう一つ、することあるでしょ?」

抱きしめた腕の中でが自分の頬をとんとんと叩く。喧嘩をした後、いつもそうするように。

「喧嘩をした後はこうやれってな」

ふと笑いを漏らして、デスマスクはの頬に口付けた。それはデスマスクが子供のころ、自分の母親から教えられたことだ。喧嘩をした後は侘びの気持ちとその人への愛を込めて口付ける。そうすればきっと、相手も自分の気持ちに応えてくれるから、と。
彼女への精一杯の気持ちを込めてもう一度口付けると、ふいに彼女が顔をそらした。だが別に驚きはしない。一瞬視線を合わせて、代わりに今度はデスマスクが目を閉じる。

やがて触れた唇の温もりが、デスマスクの冷たくなった頬にじんわりと染みた。


<THE END>