夢に見るのはあの優しい歌声。
『おやすみ かわいい坊や』。
遠い遠い記憶の中の、優しい歌声。



「これほどで動けなくなるとは情けないぞ」
「そんなこと言ったって……」

は目の前に置かれたワインボトルを恨めしそうに見ると、小さくため息をついた。
深い緑や黒に光を映し、鈍く輝くワインボトルはざっと数えただけでも五本はある。それだけのワインを二人であけたという事実だけでもすでに普通とは言いがたいはずなのだが。

「もっと飲めると思ったのに」
「それでも上等だ。まあ、まずこの私と飲み比べようと思った時点で――」
「ええ、ええ。私の負けは決まっていたようなもんですよ」

小さな頃から酒に親しみ、さらに寒い地域で今までの人生の大半を過ごしてきた男に、酒の味を覚えたばかりの人間が勝負を挑むなど、ドン・キホーテが風車に向かうも同じ。
それでも少しばかりの期待を抱いていたは、無残にも『酒豪』カミュの前に敗れ去ったのだ。

「日本酒なら負けないのに」
「ほう。なかなかの自信だな。しかし、ギリシャで手に入るものか?」
「大丈夫。ちゃんと備蓄してるから」
「ならば今からそちらに移るとするか?」

普段は寡黙なこの男も少しばかり酔いが回っているのだろう。少しばかり饒舌さを増して、横で突っ伏しているに挑発的な視線を投げる。
しかしさすがにそれには応えられない。自分でも信じられないほど酔っているのはわかる。

「……また今度ね」
「そうか。楽しみにしているぞ」

愉快そうに声を殺して笑うカミュに、はそっぽを向いたまま唇を尖らせた。
しかし、カミュはそれに気付いていないのか、ひとしきり笑うとふいに息をついた。

「さあ、家まで送ろう」

時計の針はすでに日付の変わる直前。今から帰って寝れば、明日の予定にも響くことはないだろう。

「ほら、早く立つんだ」
「うーん。面倒くさいよ」
「お前はいつもそれだな」
「それが私なの。面倒なことはしたくないの」

それだけ言うとはその場にごろんと横になる。
マットの長く伸びた毛が頬をくすぐり、あまりの心地よさに目を閉じると、それが合図だったかのように急に眠気が襲ってくる。

「もういい。私、ここで寝る」
「それはいかん。風邪をひくぞ」
「それでもいいからここで寝る」

言い出したら聞かない人間なのはわかっているが、さすがにこの場で寝させるわけにはいかない。
そう言ってカミュが何度を揺さぶっても返ってくるのは生返事ばかり。
ほとほと困り果て、どうしようかとカミュが思案をめぐらそうとしたその時、ふいにから声がかかった。

「カミュも寝転んでごらんよ。気持ちいいよ」

寝ぼけた声で幸せそうな笑顔を向けたに対して、明らかにカミュは困惑の色を浮かべた。
マットは床にひくものであって寝転ぶ場所ではない。そんな彼の常識がそうさせたのだ。
他の数名の黄金聖闘士と違ってマットの上には腰も下ろさないカミュは、の行動も、言動もまったく理解の範囲を超えていたのだ。

「ねえほら、寝転んでごらんってば」

相変わらずのんびりとカミュに手招きするを凝視すること数十秒間。
結局カミュはその誘いの前に自分の慣習を捨て去ることとなった。

「ほら。気持ちいいでしょう?」
「……そうだな」

確かに頬にあたる起毛は心地よく、眠気を誘われるのもわからないわけではない。
しかし、それ以上にが穏やかな表情で目を閉じているのを見ると、何が彼女をそうまでさせるのか、という疑問がわいてくる。

「えらく幸せそうだな」
「え? うん、まあね」

返事をするのもおっくうなのか、目を閉じたまま曖昧に答えたに、カミュの疑問はますます大きくなっていく。

「ねえ。人間たまには地面に触れないとだめだよ」

がマットに顔をこすりつけながらふいにそう言った。

「マットは地面ではないぞ」
「でもソファとかベッドよりは地面に近いでしょ?」
「確かにそれは認めよう」

半ばあきれたようにカミュが同意を示すと、それが満足だったのか、は深く頷くとマットに顔を埋めた。

「私ね、ずっと床で寝てた人間だからさ、どうもベッドになじめなくて」
「床でだと?」
「そうよ。日本にいた時はずっと床の上に布団を敷いて寝てたの。だからこっちに来てからも、たまに床の上で寝てるのよ」
「お前の家にベッドはなかったのか?」

それは「ベッドが買えなかったのか」と無意識のうちに問いかけたものだったが、どうやら相手は見抜いていたらしい。

「ベッドを買うお金がなかったんじゃないかって思ったでしょう?」

その問いかけにカミュはぎくりとした。例えそれが真実であっても、他人の領域に勝手に踏み込んだことを後悔したのだ。

「ベッドはね、必要なかったのよ」
「必要なかった?」
「そう。だって私の家はここと違って土足じゃないし、第一ベッドは場所をとるでしょう? うちはそんなに広い家じゃないし、ベッドを置いたら荷物が置けなくなっちゃうもの」

どんな家なのかと想像してもカミュには理解できない。代わりに自分が幼い頃育った家のことを思い出したが、その家は本当に小さな家だったがベッドがあった。東シベリアにある家も自分と氷河とアイザックの三人でも少し狭いのではないかと思えるほど小さな家だったが、無理矢理にでも三人分のベッドを置いた。

ベッドのない生活。そんなものは彼が想像できるような生活ではないのだ。

「どうしたの?」

ふいにそうが尋ねた。

「ベッドのない生活など、考えられんのだ」
「そんなに不思議?」
「そうだな。ついでにお前がどれほど小さな家に住んでいたのかということも」
「そうだねえ」

カミュのその言葉を受けて、は部屋の天井をぐるっと見回す。
そしてまるで当たり前かのように答えを出した。

「このリビングよりちょっと狭いぐらいかな?」
「家がか?」
「ううん。私の部屋」

その答えに思わずカミュが起き上がった。

「十分ではないか! それでベッドが置けないだって?」
「置けないじゃなくて、置かないの」

が修正を促す。「置かない方が床でのんびり寝転べるでしょう」 そう付け足して。
今度こそ、カミュは呆れてマットへと体を預けた。

「お前のその言葉を聞いていると、どこでも寝転んでいそうな気がしてくるな」
「例えば?」
「例えば……闘技場の観客席や草むらや……」
「え? いつもそうしてるよ」

その答えを聞いたとたん、カミュは大声で笑い出した。
半年に一度聞けるかどうかと思えるほどの大きな笑い声に今度はが呆然とする番だった。

「負けた! お前には負けたよ!」
「ま、負けたって何が?」
「私には天地がひっくり返ってもできぬことだからだ!」

そう言い放つとカミュは体を折り曲げて笑い続ける。
それを見ていたは自分の行動がそんなに笑いを誘うものだったのか、とひとしきり悩んだ後、へそを曲げたのかカミュに背を向けると妨げられた眠りを呼び戻そうとするかのように目を閉じた。

「すまない。腹を立てたか?」
「ちょっとだけ」

ようやく落ち着いたカミュがそう問いかけると「少し」とは言いがたい不機嫌な声が返ってくる。

「本当にすまない」
「本当にそう思ってる?」
「もちろんだとも! 何か私にできることがあれば、それで詫びにしたいのだが」

カミュの申し出にはしめた、と言った表情を浮かべると嬉しそうにこう返した。

「じゃあ、ここに毛布を持ってきて」
「……何がなんでもここで寝る気なのだな」
「だって気持ちいいんだもん。さあ、早く持ってきてよ」

急かす彼女の言葉にカミュはしぶしぶ立ち上がると寝室へと消える。
そしてしばらくの後、枕と大きな毛布を両脇に抱えて戻ってきた。

「あれ? 二枚も?」
「私もここで寝ることにした。客人を床に寝かせたままで一人ベッドで眠れる気はせんからな」

ぶっきらぼうにそう答えると、二人で寝転ぶには少々狭いと、重いガラスのテーブルを脇へと追いやる。
そして寝転んだままのの上に毛布をかけると、自分もその横に毛布をまとって寝転がった。

「どう? 気持ちいいでしょ?」
「まあ……、悪くはないな」

暖かな毛布を口元まで引き上げ、ばつが悪そうにカミュがそう答えると、がふいに手を伸ばしてカミュの肩を軽く叩く。

「ねえ、ついでにもう一つお願い」
「何だ?」

怪訝そうな顔をしたカミュに意外な言葉がかけられる。

「ねえ、子守歌歌ってよ」
「こ、子守歌!?」
「そうそう。氷河君がね、小さい頃カミュによく歌ってもらったんだって言ってたよ」
「しかし、それは……」
「いいじゃない。カミュの歌声聴きたいなあ」
「……少しだけだぞ」

しきりにねだるに諦めたのか、カミュは咳を一つすると、小さな声でぼそぼそとメロディを紡ぎだした。
照れがあるのか、頬を軽く紅潮させ口ずさむ歌は意味こそわからなくても、フランス語らしい、ということはかろうじてわかる。

やがて短いフレーズは終わりを告げ、カミュが口をつぐむと同時に小さな拍手が聞こえた。

「子守歌で拍手をもらうとはな」
「いいじゃない。うまかったよ。で、なんて歌?」
「知らん」
「え? 知らないの?」
「ああ。小さい頃、母がいつも歌っていたんだが、何という歌なのかは……」
「そうなんだ。でもいい曲ね。えーと、どど……」
「Fais dodoだ」
「どういう意味?」
「そうだな……。まあ『眠れ』ということだ」

今のお前にはちょうどいい、と付け足してカミュはもう一度毛布をかぶり直す。

「さあ、明日も教皇のところへ行くのだろう? 早く眠らんとまた居眠りをして怒鳴られることになるぞ」
「え? 何で知ってるの?」
「皆知ってるさ。ここは噂が巡るのも早いからな」

もそもそと毛布にもぐりこんだにそう目配せすると、カミュは部屋の明かりを消す。
真っ暗闇の中、毛布のすれる音が聞こえ、彼が元の場所に戻ったことを知らせた。

「おやすみ」
「ああ、おやすみ。よい夢を」
「カミュも」
「……そうだな」

カミュがそう答えるのを待ったのか、小さな寝息が隣りから聞こえ出す。
その音を聞きながら、彼もまた静かに目を閉じた。

夢の中で聞こえたのは、懐かしいあの優しい歌声。


Fais dodo, Colas, mon petit frere,
Fais dodo, t'auras du lolo.


<THE END>