十二宮・アテナ神殿を中心に広がる聖域には緑が少ない。だが、一ヶ所――宮の主が手をかけて育てた場所とは別に――緑の溢れる場所がある。
誰が呼んだか『花見の丘』。だが、この場所が昔からある、というわけではない。むしろ、この聖域で長くいる人間でも知らない人の方が多いのではないだろうか。ならば、今ここに座り込んでのんびり空なぞ眺めている女性などは数少ない人間の一人ということになる。
「いいねえ。晴れるっていいねえ」
そんなことを呟いてふと息をつく。昨日はここギリシャでは珍しい大雨が降り、普段から用もないのに外をうろついているにとっては、それはそれは退屈な一日だった。おかげで今日はいつもよりも早く家を飛び出し、ここで日光浴としゃれこんでいるのだ。
一人でのんびりと空を眺めて過ごす。人と接するのは好きだが、こうやって一人でいるのも好きだ。そんなことを考えながら、さて昼寝でもしようかとごろりと横になっただったが、それは叶うことはなかった。
「あー……」
半分寝ぼけたような声を出しながらが視線を移した先には一人の男の姿があった。金に近い髪を爽やかになびかせながら笑いかける男。彼こそがこの聖域とアテナの運命を守り続けた張本人、射手座のアイオロスだということを知らない者はこの聖域にはいない。
「どうしてここに?」
「まあ、手持ち無沙汰だったってのもあるな」
そう笑いながら、の横に腰を下ろしての頭をぽんぽんと軽く叩く。その仕草がいつもを子ども扱いしているようでどうも気に食わないのだが、されると気持ちがいいというのも知っていてなかなか抗議する気にはなれない。
「手持ち無沙汰って雑兵の訓練とかはいいの?」
「んー……。何だろな。たまには若いもんに任せて、ってやつかな?」
そう言うアイオロスに「自分だって若いじゃない」と返そうとしただったが、そういえばこの聖域ではすでに彼の歳でも高年齢の部類に入るのだと思い直し、代わりに「おっさんくさい」と笑いながら返すことにした。もちろん、それにアイオロスは心外だと言わんばかりに首を振る。
「そんなこと言ってるうちにもおばさんくさくなるんだぞ」
「ちょっとちょっと。二十歳の女性にそんなこというもんじゃないわよ」
「あれ? そうだったかな? だってが来てからもう――」
「こ、心は二十歳なの!」
わざとすっとぼけた風に首をかしげたアイオロスにすぐさまのビンタが飛ぶ。もちろん力は抜いているが、それでもビンタには変わりない。
「ああッ! 顔の骨が……!」
「何よ! その顔が変わるまで殴ってあげよっか?」
「いやいやそれだけは! 様!」
そこまで言って二人そろって、おかしさを押さえられずに笑い出す。こんな光景は至極当たり前のことだが、それも当たり前になったのは比較的最近のことになる。それまでの聖域は教皇の恐怖政治にも近いものがあったし、それが終わったと思えば、今度はポセイドン、ハーデスと地上を守るために連戦があり、とても声を出して馬鹿笑いをするなんて余裕はなかったのだという。もちろん、それはもアイオロスも知らない。それはがここに来る前の話だし、アイオロスにとってもそれは自分の知らない世界での出来事だったからだ。
いつだったか、彼の弟も交えて話していた時にふとそんな話題が出たことがある。それをアイオロスは興味半分と言った顔で聞いていたのだが、改めて十三年間というものはどんなものだったのかと親友に問うこともできず、ただ時ばかりが流れたと言う。
だがそれも、もはや誰も答えることもなく肌で感じることができる。皆のなんと笑顔に溢れた、心に余裕を持つ表情であることか。
と、そんな話をにしても首を傾げられることはわかっている。彼女は戦いとは無縁の平和な世界で育ってきた人間なのだから。だから別段口に出さないが、彼女の笑顔を見るたびに、アイオロスはふと眩しさを感じずにはいられなかったのだ。
「あれ? どうかしたの?」
ふと尋ねられて、アイオロスはまた自分が彼女を見つめていたことに気付いた。
「もう、やだなあ。そんな目で見られたら照れちゃうじゃない」
「そ、そうか?」
いきなり指摘されて照れるのはむしろこっちの方だ、と思いながら、アイオロスはふと笑う。彼は笑っている表情が多いが、それもまた照れ隠しなのも半分はある、ということを知る者は少ない。もちろん、それほど縁の長くないも知らない人間の一人だ。
「それにしても、ここも綺麗になったな」
話題をそらそうと周りを見渡す。アイオロスの記憶の中では、荒野だったこの丘も今では花に溢れている。だが、それにきょとんとしながらも、はそういやここは花もあまり咲いてなかった、などとまるで昔を知っているような返事をする。今度はアイオロスがきょとんとする番だ。
しかしそれも話を聞いているうちに納得がいった。彼女が来た時にはまだ、ここは荒野に少し草が生えた程度の土地だったというのだ。
「じゃあ、あっという間にここはこんな風になったってわけだな」
「うん、そうだね。私もビックリしちゃったよ」
「それだけ自然の力は偉大だ、ってことかな」
「それって雑草魂ってやつ?」
そう言ってはふん、と力こぶを作る仕草をした。
「私も見習ってたくましく生きなきゃ」
「え……?」
「雑草のように、踏まれても踏まれても強く生きなきゃね!」
そして気合を入れるかのように大きく声を上げる。それにアイオロスは喉まで出かかった言葉を必死で押し戻した。それ以上強くなってどうするつもりだ、とかそもそもお前を踏もうと思う奴なんてそうそういない、とか。言えば先ほどのものとは比べ物にならない、本物のパンチをくらうことはわかっている。
だから代わりに「俺も強く生きなきゃな」などと返したのに。
「え? アイオロスはもう十分たくましいでしょ?」
「どういう意味だ、それは?」
「だって、一度死んでんのにまた蘇ってこうやって生きてるんでしょ? それだけで十分じゃない」
「まったく、君ってやつは……」
自分が言わなかったこともさっぱりと言い切ってしまう。それがあまりにもおかしくてアイオロスは顔を手で隠してくすくすと笑い声を立てた。それもにはわかるはずもない。
「もう、一人で笑ってなさいよ」
それだけ言うとはその場を後にすることにした。まだ後ろではアイオロスの笑う声が風に乗って届いてくる。それでも振り返らず、十二宮へと戻ろうとした道でふと見知った男に出会い足を止める。
「おや、もうお帰りってわけか」
そう言って肩をすくめたカノンに同じように肩をすくめては返す。「カノンはサボりってわけ?」
「馬鹿言うな。休憩中だ」
「それはサガが怒らない休憩なの?」
「当たり前だ。それにあいつの怒鳴り声ならさっきまで嫌ってほど聞いてきたからな」
顔をしかめたカノンに「やっぱり」と笑って、はふとカノンが目指していた場所を指差し。
「一人で和みたいんなら残念。先客がいるよ」
「先客?」
「そう。一人でずーっと笑ってる人がね」
誰がいるんだと首をかしげたカノンの背中を押しつつ、別れの言葉を告げてはまた歩き出す。ふと空を見上げると、先ほどと変わりなく晴れた空が広がっていた。
「うん。晴れるっていいねえ」
そう呟いて後ろを振り返る。さっきまで大きかったカノンの背中が今は小さく道の向こうに見える。
「もう。せっかく私が見つけた場所なのに」
皆、暇さえあれば行っちゃって。それを少し残念に思いながらもようやく見えた自宅を目指し、はまた歩き出した。
<THE END>